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即決裁判手続について

即決裁判手続という制度が、刑事訴訟法350条の2以下に規定されています。



懲役または禁錮を求刑する事件であっても、事案が明白で、軽微であることや証拠調べに手間がかからないと思われる場合には、執行猶予を付けてシャンシャンと裁判を終わらせましょうという制度です。実務では、起訴から2週間以内に初回公判期日が定められ、その日に判決が言い渡されているようです。


窃盗(万引き)、公務執行妨害、不法滞在等の事案で利用され、裁判員裁判の準備で忙しくなった検察官(裁判官)の負担を軽くしようとする意図があるように思われます。


弁護人としては、指定されている期日を受けることができる場合に受任し、早急に被告人と接見して事実関係を確認した上で、証拠を閲覧する(順序が逆になることもあるでしょう。)ことになります。初回期日は30分となっていますので、情状証人に対する尋問をしていたら、被告人質問をする時間がないのが実情です。つまり、被告人質問のみで終了させます。


したがって、即決裁判手続の短所は、被告人に判決に対する感銘力があるのか疑問が残る点であると言うことができます。普通の裁判であっても、執行猶予期間が何年であるか、そもそも執行猶予とは何なのかさえ理解していない人がいます。したがって、そういう人を執行猶予にすることにそれほど意味はないと思うのですが、即決裁判手続では、ある時点から執行猶予になることが法律上約束されているわけですから、また事件を起こし、即決裁判手続で言い渡された執行猶予は何だったのかとならないか不安です。



法律上は、執行猶予中の犯行でも、再度の執行猶予を付することは可能な場合があります。例えば、以前ですと、無免許運転をした場合、罰金刑を2回受けて、3度目は正式な裁判となって懲役刑の執行が猶予され、4度目も無免許運転で刑務所に行かせるのはどこか忍びないということで、再度の執行猶予(保護観察付き)になっていましたが、最近は、刑務所に行って頂くのが当たり前で、控訴しても全く相手にしてもらえないのが実情です。


そうすると、多少は身柄拘束期間が長くなったとしても、きちんとした裁判を受け、自分が犯した罪の重さも肝に銘じることが被告人にとって有益であり、特に再犯の可能性が高い覚せい剤の事案では、前科がなくても即決裁判手続を利用するべきではないように思います。 

人の命について

野田聖子議員が、体外受精によって妊娠されたことが報道されていました。野田さんは、出産時には50歳になっているとのことですが、無事に出産されたらといいなと思います。


母と子については出産(分娩)の事実によって母子関係が生じますが、今回は他人の卵子をもらったとのことであり、そういう場合も出産の事実によって、産まれてくる子供さんと野田さんとの間に親子関係が生じるのだろうかという疑問があります。しかし、そういう疑問は別にして、家族が増えると喜ばれている姿は微笑ましいものがありますね。


昨今、自分の子を虫けら同然に虐待し、その命を絶つ事案が増えています。保護責任者遺棄致死、傷害致死ではなく、殺人でやればいいのにと思う事案もあります。そういうとき、弁護人の中には、被告人自体が幼少期に親から虐待を受けたことを理由に情状酌量を主張する方がいますが、私には今一つ理解できません。虐待を受けた経験があるのであれば、逆に虐待をしない人間になるのではないかと思えるからです。育児ノイローゼになって、子供の頭を叩き、死なせた母親がいました。親になるという自覚、責任感が足りないと思います。私は、解剖医から、叩き方によって指2本で叩いても、人は死ぬという話を聞いたことがあります。人は、場合によっては簡単に死ぬということです。


ところで、検察官が、事件に対する求刑を決めるのは起訴をする段階です。これは一般的な話で、死刑を求刑するような事案であれば、上級庁と協議する必要がありますので、とりあえず起訴し、後に公判の推移を踏まえて求刑を決定する場合もあります。そして、裁判では、検察官の求刑をある程度下回る判決がなされるのが通常(いわゆる量刑相場)であり、恐らく求刑の半分以下となれば、判決に問題がないか検討することになるでしょう。逆に、求刑を超える判決が出たとなれば、これは一大事で、新聞沙汰になりますし、上司から「何をしていたのか。」とお叱りを受けることになります。


私自身の経験ではありませんが、起訴された事件について、公判の推移を見て、すでに決まっていた求刑を上げたところを見たことがあります。今のように児童虐待が横行していたわけではありませんが、あまりにもえげつない態様で、決まっていた求刑が軽すぎると察知した検察官が、わざわざ求刑を上げる手続をしたのでした。一旦は印鑑を押して求刑に同意した方に再考を促すわけですから、勇気が要りますが、その状況を見ていて、検察官は、臨機応変に対処しなければいけないなと痛感しました。そして、判決も満足すべき内容でした。従前の求刑を維持していたら、なかなかあそこまで刑をもっていくことは困難だったと思います。


そして、その論告も素晴らしいものでした。「そもそも○歳の幼児と親の関係にあっては、親が幼児の気持ちをくみ取るべきであって、言いたいことを言えなくさせてしまった親にこそ責任があり、その意味で、本件の被害者に落ち度はない。」という趣旨のことが書かれてあったと思います。


今でも、私には書けない文章ですね。    

死刑の刑場が公開されたことについて

マスコミに対して、東京拘置所内の死刑を執行する際の刑場が公開されました。初めて見ました。きれいでしたし、その静けさが不気味でした。


死刑制度については、賛否両論がありますが、私自身は死刑制度に賛成です。死刑が言い渡される現状を見ると、1人を殺害しただけでは無理で、1人を殺害した事件で死刑が言い渡されるのは、その態様が残虐であったり、前にも悪いことをしていることが必要です。この現状、つまり、複数の人の命を奪ったということや矯正の可能性が低いこと(可能性がないと言えば、言い過ぎかもしれません。)を考慮したら、自らの命をもって罪の償いをするしかない場合があるはずです。もし、死刑を回避しようとするならば、遺族が被告人を許しているという条件を付けたら、どうでしょうか。 


死刑に反対している方が、自分の家族全員が殺害され、その事件が裁判になったとき、なお死刑はおかしい、被告人を無期懲役にしていいと言われるのであれば、主義主張が一貫しているのですから、それは素晴らしいことだと思います。ただ、私は、そこまで人間ができていません。やられたら、倍にして返す主義ですから、死刑を望みます。


もっとも、死刑制度について議論することまで否定はしませんし、その結果、刑法が改正され、死刑という刑が無くなれば、そのときはそのときだと思っています。死刑が執行されると、弁護士会の会長名で反対の声明が出されたりしますが、それに対する反対意見を書くことはできないのかとか、「貴方の家族が全員殺害されても、死刑は反対だな、パフォーマンスなら止めとけよ。」と思います。

24時間テレビについて

今年も24時間テレビの季節がやってきました。33回目ということですから、私が高校生のときに始まったことになります。私の記憶にも合いますね。当時は、テレビ放送が24時間はなく、深夜は放送を中断していたように思いますので、一晩中テレビを見ることが出来るというので、何となく見ていたように思います。


募金もしたことがありますが、ある時期から止めました。番組が露骨に募金の額を問題にし、途中経過を発表して目標を達成しようとし、人の善意を煽る行為をしたので、嫌気がさしました。私は、ボランティアの方の人数を減らし、24時間アルバイトをしてもらって、その給与を全額寄付してもらったらどうかなと思っています。


ただ、今年は盲目の少女がトライアスロンに挑戦するそうで、これには注目しています。私は泳げません。自転車も持病の関係で、それほど長く乗り続けることはできません。走ることですが、私が通っていた高校は敷地の内側がおよそ700メートルあり、体育の授業では、これを8周するのがプログラムに組み込まれていました。早く走る友人からは2周近く差を付けられ、私が完走したふりをすると、「後2周。」と声をかけられたものでした。今回の盲目の少女は自転車に一人で乗り、先導する人が装着した機械から出る音を頼りに、その後ろを走るということで、すごいと思います。「仮に」ということはできませんが、仮にこの少女が健常者であったら、どうなっているのかなと考えてしまいます。きっと「心の目」は研ぎすまされているのでしょうね。


ところで、少し法律的なことにも触れておきましょう。


募金集めをしている人がすべてまともとは限らず、募金集めの名目で金銭を騙し取ろうと考えている不届きな者がいます。こういう場合、募金してくれた人を特定すること、したがって、騙された被害者と被害額を特定することは困難ですし、中には怪しいと思いつつ募金する人もあり、募金箱の中は騙されて募金した人の金と怪しいと思いつつ募金した人の金が混じっていることがあるわけです。


このような事例について、最高裁判所は、一連の(街頭)募金詐欺の全体を「包括一罪」とし、その上で各募金行為に係る被害者及び被害金額を特定する必要はないとしています。また、募金の方法やその方法により募金を行った期間、場所及びこれにより得た総金額を摘示することをもって「訴因の特定に欠けることはない」としています。至極道理にかなった判断ですが、このようなことをする被告人は必ず処罰する必要があるとの結論が先にあり、この結論に向けて説得力のある理由付けがなされたと考えます。


司法試験の受験生は、この問題が出題されたら、きちんと書けますか。


最後に24時間テレビですが、この番組を見た日本人が年に1度は偽善者になるのも悪くないかもしれませんね。

窃盗の無罪判決(金沢地裁)について

9月1日、金沢地裁で、窃盗で裁判を受けていた男性に無罪判決が言い渡されたと報道されています。


司法修習生になって、初めて検察の講義を受けたとき、犯人違いと不当勾留は絶対にダメと教わりました。どんなに立派な理論を構築しても、犯人が違う、つまり、「被疑者と罪体との結びつき」がないとなれば、お話しにならないのです。


そして、前記修習の終わりには、酔っぱらい同士の傷害事件(出来れば、1対1ではなく、何人かが入り乱れての喧嘩)と非現行の窃盗事件をやって、事実を認定する能力を磨いてくるよう指導されました。前者は当事者が犯行の状況をよく憶えていないため、怪我等の客観的な証拠、利害関係のない目撃者の証言等から、事実を認定する能力を身につけよという意味です。後者は、いわゆる秘密の暴露(捜査官が知らず、被疑者の供述があって裏付けをとった結果はじめて明らかになった客観的な事実と言えるでしょう。死体遺棄であれば、被疑者が死体を遺棄した場所を供述し、その供述にしたがって死体が発見された場合が分かりやすいと思います。)をとれという意味です。決裁官の中には、非現行の窃盗について、裁判になったほとんどのケースを無罪にする自信があると豪語された方がいました。


今回の事案は、まさに非現行の窃盗の事案です。しかも、男性は一貫して事実を否認していたとなっています。自白事件であっても、自白を除いて被疑者が犯人であるとする証拠があり、それが信用できるか吟味します(そういう癖をつけます。)。したがって、決裁を受けるにあたって、証拠関係を聞かれた場合、最初に「被疑者の自白があります。」と言ったら、失格です。今回は、前述の通り、否認事件である以上、自白を除いて、「被疑者と罪体との結びつき」を認める証拠は何だったのかが問題になりますが、恐らく防犯ビデオに映った映像が決め手ということになるのでしょう。他にも怪しいところはあったかもしれません。


しかし、どんな言い訳をしてみても、弁護人が「耳の形が違う。」と指摘して無罪の主張ができたのであれば、警察、検察も同程度の問題意識をもって臨むことができたはずです。これから、検察庁では、事ある度にこの事例が引き合いに出されるはずです。今でもぼろくそに言われているはずですが、起訴した検察官、決裁をした上司(検事正は近いうちに退官されるかもしれませんから、特に次席検事ですね。)が嫌な思いをするであろうことは、検察庁の体質から容易に想像できるところです。

傷害事件(和歌山地検)について

9月2日、和歌山地検の庁舎内で、検察官が被告人の父親から包丁で切りつけられて怪我をしました。幸い検察官の怪我はそれほどのものではなかったようですが、犯人を取り押さえたのが、居合わせた司法修習生となっており、最近は司法修習生という言葉をよく耳にするなと思われる方が多いと思います。


こういう事件が起こると、人の心が荒んでしまったなと思えてなりません。司法制度に暴力で挑戦した被疑者には、相当の期間刑務所に服役してもらう必要がありますが、こういう被疑者は、出所してもまた同じような事件を起こすかもしれません。


検察官は忙しいです。世の中、いい人ばかりだったら、検察官は暇です。しかし、普通は身柄事件の処理に追われ(念のために書いておきますが、身柄事件も1件だけ抱えているわけではありません。)、やっと処理できるなと思ったときには、次の事件がきます。上司は、どの検察官が、どういう事件を担当し、それがいつ処理できるか把握しています。さらに、在宅や、起訴した被告人の余罪の事件も処理しなければいけません。


今でも忘れられないことは、追起訴が公判に間に合わず、公判が空転し、公判を担当していた検察官から怒鳴り込まれたことです。検察票には、これ見よがしに「空転」という文字が書かれていました。公判だけを担当していても、次から次に起訴された事件の記録が持ち込まれ、証拠を整理するのも大変です。したがって、午後5時で帰るのは無理で、深夜まで仕事をし、土曜、日曜であっても役所に出ることが多いのです。その意味では家族を犠牲にする仕事であり、検察官を目指す方は覚悟をしておいて欲しいです。


しかし、命をかけてまでする仕事ではないと思います。


今後、庁舎の警備のあり方が議論されるはずです。昔とは違うという発想が必要でしょう。


私は検察大好き人間です。したがって、誉めるときは誉めます。しかし、現実も知っています。検察が間違ったことをしたら、当然、辛口の批評にならざるをえません。検察に対する淡い理想を大事にされる方は、私のブログを読まれない方がいいと思います。

犯罪被害者・遺族について

今回は、あえてタブーとされている感がある犯罪被害者・遺族をめぐる問題について、私見を書かせてもらうことにします。


検察官は公益の代表者であり、検察官には、「国民は俺たちに処理を任せておけばいい。」という驕りがあったことは事実でしょう。しかし、①子供さんが交通事故で亡くなった事件の処理に不手際があったこと、②弁護士が犯罪による被害者遺族になったことから、事態が変わっていったと思います。


たしかに、前者は子供さんが亡くなっているのに、親御さんの心情を十分酌み取ることなく、年末未済の処理の一環として扱ったと思えましたし、後者は、発言すればそれなりに影響力がある弁護士が遺族となったわけですから、犯罪被害者遺族の気持ちを自分の体験として話せることは大きかったはずです(ただ、この弁護士が刑事の国選弁護をどれくらいやられていたかは分かりません。)。


そして、最近の世の中の傾向ですが、振り子が振れた場合、余りにも逆の方向に振れすぎるような気がしてなりません。犯罪被害者・遺族の保護に関する法律が制定されました。


法律家は証拠の世界に生きています。


検察官は、悪質な死亡事故を担当する場合、何とか起訴して被害者の無念を晴らしてやるんだという気持ちで、事件の処理にあたります(この気持ちは警察官でも同じだと思います。)。しかし、検察官は、証拠を検討した結果、起訴できないとなり、涙を流していました。遺族の中には、人が亡くなっているのだから、何らかの不注意があったはずで、起訴するのが当たり前だろうという考えがあり、それは遺族だから仕方がないのかもしれませんが、しかし、法律家には証拠があるかどうかが勝負です。したがって、駅前で署名集めをされて、これを検察庁に持参されても、お預かりするのが限度です。まず、事実認定をし、適用すべき法令を検討した上で、起訴することになって、その後で情状について吟味します(募金集めに関する最高裁判所の判例を検討したことがありますが、決して矛盾はしていないと思います。)。署名集めの結果は、情状に影響することなのです。


私は、先輩から、「被害者が亡くなっている場合は、どういう検察官が処理にあたっているか分かってもらうために、遺族に来てもらえ。そして、それまでの思い出、これからの夢を語ってもらえ。調書にしなくてもいい。」とアドバイスを受けたことがあります。通り魔事件を担当した際、そのアドバイスを忠実に実践しましたが、その事件の内容が活字になっているのを見ると、検察官が説明の際に使った法律用語はデタラメですし、遺族の話を鵜呑みにしているだけで嫌になりました。


検察官は、存在する法律を適用する行政官であり、法に書いていない処分をすることはできません。遺族が希望する内容を実現するのはまず立法の問題であり、国会に訴えて法を変えてもらわないといけません。そのため、現在の法律に不備があり、残念ながら、そのために犠牲になる方(私は、「人柱」という表現をしました。)が必要なのです。その人柱があったおかげで、法律は変わりました(例えば、危険運転致死傷罪が創設されたり、自動車運転過失致死傷罪が創設されて法定刑が引き上げられました。)が、犯罪被害者・遺族が求刑をすることを認めたことについては、法務省、検察庁の頭の中が理解できません。それでガス抜きをしようと思ったのかもしれません。しかし、求刑は公益の代表である検察官のみが行うべきものであると確信しています。


ところで、司法修習生のころ、小学生のお子さんが亡くなった交通事故の裁判を傍聴したことがあります。被告人は二十歳過ぎの若者でした。遺族の方が作成された「朝、元気に行ってきますと学校に行ったのに、帰ってきたら、冷たくなっていた。短い人生だったが、人生70年生きたときに経験する喜びと悲しみを経験してくれたと思う。他の人に比べたら、10分の1にも満たない人生であったことが悲しい。しかし、こういう事故を起こしたことを背負って、これから生きていく被告人も辛いだろう。子供のことを忘れないでくれたらいい。厳しい刑は望まない。」旨の書面が朗読され、涙が出たことがありました。


今の仕事に就いて、不本意ながら、何回か交通死亡事故の被告人の弁護を依頼されたことがあります。遺族からすれば、殺人であろうと、交通事故であろうと、愛する家族が亡くなったという点では同じでしょう。私は、憎い被告人の弁護を担当する者として、現場に花を供えさせてもらったり、お宅にお邪魔させて頂いて線香を上げさせてもらって、弁護をすることになった旨報告させて頂くようにしています。お宅にお邪魔した場合、お茶は辞退しますし、座布団も遠慮します(客ではないのですね。未熟なとき、堂々と座布団に座っていたことがあり、後で恥ずかしくなりました。ただ、足がしびれて、いざ帰ろうとなったとき、歩かなくて情けなかったです。)。保険会社に任せ、謝りに行かない被告人であれば、叱り飛ばしています。また、遺族が傍聴されていても、亡くなった被害者に落ち度がある事案であれば、きちんとその点を指摘します。それが、私のやり方です。



ただ、私の家族が犯罪で命を落とした場合も、同じ事が言えるかどうか疑問です。なぜなら、私は、それほど出来た人間ではないからです。

供述調書自体の変遷について

供述内容が変遷し、変遷について合理的な説明がなされていないと問題になります。ただ、今回は供述調書の「形式面」の変遷について取り上げてみたいと思います。


昔は、供述者が話した内容を調書の用紙に手書きしていました。どんなに長い供述調書でも、立会事務官が必死で手書きしていました。一度、立会事務官が席を離した際、自分で手書きしようとしたのですが、びっくりするほど漢字が出てきませんでした。しかも、書き始める位置を間違っていました。


当然、警察からも手書きの供述調書が上がってくるのですが、字は下手でもいいから、読みやすいものにしてくれないと解読するのに一苦労でした。斜めになった字を書く警察官もいて、「また、これか。」と思うことがありました。検察官は、公判で供述調書の内容について、その要旨を説明する(原則は全文朗読です。)ことになっていますが、解読できないのですから、証拠能力(証拠となるべき資格とでも言えるでしょうか。)がないと言われても仕方ありません。


その後、若い事務官がワープロを打って供述調書を作成するようになり、今では警察もワープロで供述調書を作成しており、解読できない事態に遭遇することはなくなりました。しかし、警察の供述調書によくあることですが、出だしから数行が全く同じ供述調書数通が出てきて、明らかに手抜きをしていることが分かるため、「この刑事はダメ。」とレッテルを貼ることにしています。万が一、法廷に証人として呼ばれた場合は、徹底的にいじめます。


ところで、供述調書を作成した場合、①供述人に読んで聞かせて内容が間違いないことを確認してもらったら、末尾に署名指印(あるいは押印。以下は指印だけを書きます。)をしてもらっていました。なお、調書の1行目に署名指印させることは、話したとされる部分は捜査官が勝手に作ったものだと言われるので、厳禁でした(いわゆる白紙調書事件ですね。)。


これがいつのころからか、②読んで聞かせた上に、供述人自身に閲読してもらうようになったのです(当然、署名指印をしてもらいます)。しかし、それだけに止まりませんでした。③読んで聞かせた上に、供述人自身に閲読させて内容が間違いことを確認してもらってから、末尾に署名指印してもらい、さらに、供述調書の各ページに指印までしてもらう形式になってしまいました。なぜ、こんなに変わったかというと、捜査に対する信頼が失われた結果だと思うのです。ワープロで打った調書ですから、ちょっと表現がまずかったと思えば、打ち直した新しいものを編綴することが可能であり、そういうことをした不届き者がいて、それが露見した結果がこれだと思われます。印字した日時まで印刷されていた供述調書に出くわしたことがありますが、これは何かの間違いだったようです。


最近の裁判を見ていると、供述調書にとにかく署名指印させれば、検察が勝てるという時代は終わったような気がします。

臓器移植について

臓器移植法が改正され、従前より臓器移植をするにあたって本人の承諾が必要ではなくなり、臓器移植の事例が増えています。家族が承諾するのは、自分の家族が臓器を提供し、救われる命があればいいという考えからだと思います。逆に、自分の家族の体にメスを入れることに抵抗があると考える家族もおられ、臓器移植を躊躇われることもあるでしょう。


たとえ、どんなに臓器移植の事例が増えたとしても、後者のような家族がおられることを忘れてはいけないと思います。


ところで、裁判員裁判に対するマスコミの関心が低くなり、全事件について報道カメラが入って、法廷の様子を撮影することはなくなりました。恐らく、検察官が死刑を求刑するような裁判員裁判であれば、必ずやってくるでしょう。芸能人(そう言えるか疑問ですが。)の裁判員裁判の判決は入れ替わりで伝えていました。最近のマスコミには、途中から審理を傍聴し、開廷中であっても携帯電話のマナーモードが作動すると、「ちょっとすみません。」という感じではなく、堂々と退廷し、扉の開け閉めに全く気を遣わない者がいます。常識がないというか、マスコミに関わるものとしての教育がなっていません。


そのうち臓器移植についても話題性がなくなると、報道しなくなると思います。それまでの辛抱なのですが、できることなら、移植される臓器が入っていると思われるボックスを撮影して放送するのはやめて頂きたいですね。

中国人船長の釈放について

那覇地検の次席検事は、本音を言いたかっただろうなあ。言わなくても分かりますけどね。


端的に「政治的な配慮から釈放した」。と言う方が、国民は納得したのではないでしょうか。海保が検挙に来ると予想していなかったでしょうから、巡視艇に衝突させての逃走は計画的であるはずがない(中国人のことだから、ぶつけてでも逃げようと考えていたかもしれませんが。)。巡視艇に航行できないような損傷はなく、怪我人もいない。そんなことは最初から分かってました。巡視艇の損害は中国が賠償するのでしょうか。怪我人がいたら、起訴したのでしょうか。いずれにしても、今回の海保はよくやったと思います。中国船舶を取り逃がしていたら、ヘリコプターが墜落した後でしたから、海保は何を言われたか分かりません。


たしかに国益を考える必要はあるでしょうが、それは検察が考慮することではない。今の検察は、証拠の改ざん事件のことで手一杯ですから、官房長官から言われたら、その指示に従うしかなかったのでしょう。官房長官、さらに総理が白々しいことを言っていました。官房長官は弁護士ではなかったですかね?私はそこまで大人になることはできません。これで内閣の支持率がどうなるか楽しみです。


それにしても、ここ数日、知っている顔がよく出てくるなと思います。

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Author:オグちゃん
平成25年5月、アメーバ・ブログから引っ越してきました。役に立つことも、役に立たないこともマイペースで書いています。日記のような感じでしょうか。

しかし、ブログから新しい出会いが生まれ、有難いものであるということも知りました。

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