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記念日

おはようございます。今日は、我が家の一つの記念日ですが、特にイベントは予定していません。

司法研修所の検察教官を歴任された上司お二人にお願いして証人になって頂きました。届けを提出したあの日も役所は休みであったと記憶しています。嫁さんに、何度も「後悔しないか。」と質問しました。私は、役所に届けを提出した後も「今なら取り返せる。」と言ったのです。今日、同じ質問をしたら、黙して語らずとなるかもしれません。恐いので質問はしないです。

一応、感謝、感謝!!

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昭和60年の8月12日について

平成26年8月12日になりました。世の中は、既に盆休みモードに入っており、帰省される方が先日の台風11号の影響で交通機関が運休となって予定が変更になったニュースを目にしました。子ども3人がお世話になっている空手の道場も今日から盆休みになり、昨日の少し遠方にある道場での練習に子ども3人はJRを使って行きました。空手のF先生、東北地方までお墓参りに帰省されるようです。「行ってらっしゃい。」、耳障りの良い言葉です。


ところで、ブログに「あの日の出来事」という新しいカテゴリーを作ってみました。正確には、「あの年の出来事」かもしれません。

昭和60年8月12日、日航機が墜落しました。29年が経ちました。そのことを知らない世代も増えたはずです。当時の私は、下宿にテレビがなく、新聞もとっていませんでしたから、世の中の動きは主にラジオのニュース、大学の図書館にある新聞で知る生活を送っていました。

ニュースの内容は、帰省客を乗せたジャンボ機が羽田空港を出発した後、消息を絶ったということから始まり、日が変わって墜落しているのが発見されたと記憶しています。生存者が自衛隊によって救出されるシーンが何度も放送されました。亡くなった方がジャンボ機が迷走する中、家族に遺したメモが涙を誘いました。「生」と「死」、どこで、どう分けられるのか不思議でした。圧力隔壁、ダッチロールという言葉を耳にするようになりました。

私は、その年の3月に大学を卒業し、司法試験の受験一本に絞り退路を絶った感がありました。こういう言い方をすると、人の聞こえは良いですが、単に就職したくなかったのです。5月に実家のある福岡で択一試験を受験して久しぶりに親の顔を見て安心し、ほとんど頭を使う必要がない問題にそれほど苦労することなく合格しました。たしか、合格最低点がやたらに高かったと記憶しています。しかし、論文試験を待っていたかのように、梅雨が明けて酷暑になった直後に初めての論文試験を受験し、4日間(当時は4日間でした。)試験会場に足を運ぶことだけで精一杯でした。また、同じ教室で受験していた高校の同級生(Kさんではありません。)が、近くで喋りまくっていた連中を怒鳴りつけるシーンを目にし、あまりの暑さで頭がおかしくなったのかと思いました。後日、その同級生の他1名、それから大学の同級生2名が最終合格していたので、参加賞を貰いに来た馬鹿どもに自分の人生を邪魔されるのは許せなかったのだろう、自分もそうなるだろうかと思ったものです(最終合格した年の私は、馬鹿どもの近くにいないで淡々と休憩時間を過ごしましたし、苦手な分野から出題されないことを祈って出番を待っていました。)。なお、大学の同級生2名は論文試験を1回でパスしましたが、よく勉強しており、よくできる人でしたし、両名ともに検察官になりました。

私は、択一試験に合格したことがこの年の収穫で、論文試験の結果は嫌でも分かっていましたから、クーラーがなくて、熱風を送ってくる扇風機しかない下宿を避け、大学の図書館で適当に勉強してから、銭湯が開く時間になったら勉強をやめて銭湯に行き、その帰りには、西友の裏にあった馴染みの「スリー食堂」に寄って一杯やっている日々が続き、その食堂のテレビにかじりついていました。ただ、食堂が盆休みの間は、西友の電化製品の売場でテレビを観ていたように思います。


最後に、私もお盆休みモードに入りました。私のお盆の予定ですが、先頃虫垂炎の手術をした同期は傷口が化膿して術後の経過が芳しくないため、お盆の間に1泊2日できちんと手当をするかもしれません。そうなった場合で、かつ、私自身のCT検査結果に不都合がなかったときは、再びプリンを持って入院中の同期を見舞う約束をしました。

平成22年8月10日について

いつの間にか過ぎていました。平成22年8月10日からブログを書くようになりました。

サッカーシェンシェイがブログを書いておられるのを知って、自分もやってみようかなと思い、実際にブログを書き始めるまでに数日はかかったと思います。プロフィールなどの登録に時間を要した結果です。当時はアメーバ・ブログに登録し、マクドナルドのフードストラップに関する記事から書き始めたものの、他の方に読んで頂けるものとは思っていませんでした。また、サッカーシェンシェイのように本名を明かすことなく、知っている人は知っている、知らない人は全く知らない、ある意味では月光仮面のおじさんのような「オグちゃんのブログ」と題して始まりました(配点される身柄事件の処理でアップアップの状態のとき、頼りになる上司のOさんから、「主任検察官」欄のところに「オグちゃん がんばれよ」と書いてあったことが強く印象に残っていました。)。

そして、裁判員裁判に関する記事を投稿したところ、裁判員裁判に反対で、しかも、私のことを知らないはずの人物からきついコメントを頂き、ブログの恐さを知りました。なお、私はブログをもって議論を闘わせる場であると位置付けていませんので、コメントは削除しましたし、もう一回同じようなコメントがあった場合には少し後悔させて上げないといけないかなと思ったものです。ただ、最近、裁判員裁判はそろそろ終わりにしてもいいように思っています。裁判員裁判を導入するために法廷を改装し、機材を設置した費用もそれなりの件数を処理したことによって元はとれたように思いますし、裁判員候補者を呼び出すために要している費用は莫大なはずですが、国民の関心は今一つのようです。そして、正当な理由がなく、裁判員の選任手続に出頭しなくとも何のお咎めもないことが知れ渡っています。さらに、職業裁判官が意地を見せ始め、裁判員裁判の開始当初とは異なり、裁判員裁判による判決を破棄する事例が増えたばかりか、つい先日、最高裁判所において、検察官の求刑の1・5倍の判決を言い渡した裁判員裁判(一審)を破棄し、これまでの判例を前提としたやり方を是認し、裁判員裁判もその例外ではないとしました。それを受けて、東京地方裁判所立川支部で審理されたストーカー殺人事件では、懲役22年の判決が言い渡されましたが(検察官の求刑は無期懲役)、裁判長が述べた量刑の理由に関する説明が先の最高裁判所の判決を露骨に意識したものでした。裁判員と最高裁の鼻息を窺うだけの今の小粒な裁判官には、特に弁護人が被告人の納得する弁護活動をさせてもらえるとは思えないのです。

ところで、平成25年の5月にはアメーバ・ブログからの引越しをして、同ブログの更新は中止したものの、現在もなおアクセスして頂いているようであり、人気記事ランキングを見ると、一応、法律家のブログだなと思います。そして、FC2ブログに引越した後には、予想外の心筋梗塞を発症してしまい、このことを抜きにして語れない状況になりました。こちらの人気記事ランキングを見ると、表現は良くないですが、「病人」のブログだなと思います。

そして、私のブログに対する考え方についてですが、本人が自由に書いて満足できているのであらば、それでいいのでしょうが、司法試験を受験する方のブログの場合は、きちんとした文章で書くよう心掛けた方が良いと思っています。その種のブログを見ていると、勉強した内容をメモした程度のものから、司法試験を断念した内容のものまで様々ですが、この方は本試験の場で日本語のまともな文章が書けるのだろうかと心配になることがあります。なお、きちんとした文章でブログを書くことについては、中部大学の武田邦彦先生がその著者の中で論じておられましたから、決して間違ったことではないでしょう。

いつかは、このブログも終わります。それがいつになるかは、今のところは不明であり、当面は5年を目指そうと思っています。その結果、「月別アーカイブ」の欄が長〜くなりますね。

長女が生まれたあの日について

当時、私は社会の耳目を集めた事件の主任検察官をし、自庁だけでなく、高検管内からも検察官の応援を得ていました。そのため、被疑者の取調べをしない日も被疑者の身柄が留置され、捜査本部が設置されていた警察署に行き、被疑者の状況を確認するのが日課となっており、他の検察官も何らかの裏付け捜査をしていましたから、休みをとる雰囲気ではなかったのです。なお、司法修習生の指導係もしていましたが、司法修習生の相手をしている場合ではありませんでした。

しかし、先輩の三席検事が、「週末に動きはないだろうから、久しぶりに土、日は休もう。」と言ってくれたので、全員が休むことになりました。そこで、嫁さんは前の月から出産のために実家に帰っており、それまで一度も嫁さんの実家に行ったことがなかった私は、ちょっと顔を出すことにしました。

義母がとても喜んでくれました。ところが、出産予定日が9月上旬であったにもかかわらず、日付が変わる頃、嫁さんが破水してしまい、義母にとっても初孫でしたから、バタバタすることになりました。特に、私の場合は出産予定日よりも2週間早かったこと、破水して羊水が無くなったことから、嫁さんのお腹にいる子が干からびるのではないかと真面目に心配しました。

たしか夕食のときにはビールを飲んでいた義母が車を運転して病院に行ったら、陣痛が始まったら連絡するということで私と義母は追い返されました。そして、やっと眠ったと思ったら、病院から陣痛が始まったと連絡があり、再び義母が運転する車に乗って病院に行きました。

私はできれば出産に立会いたいと思っていたところ、念願が叶って分娩室で嫁さんの手を握っていると、看護師さんから、私に嫁さんと一緒に「ヒーヒーフー」と呼吸をするよう指示があり、指示通りに「ヒーヒーフー」と呼吸していたら情けないものがありました。幸い安産で長女は無事に誕生しましたが、猿みたいでしたし、白いヌルヌルが付いていたので変だなと思った記憶があります。それでも決まり文句の「お父さんにそっくり。」と言われると悪い気持ちはせず、眉毛が似ていると思いました。なお、嫁さんとほぼ同時に陣痛が始まった女性がいらしたのですが、出産するまでに12時間かかったと後に知らされ、さすがに「ヒーヒーフー」を12時間は続けられないと思いました。

分娩室から戻った嫁さんが長女を見ている目が怪しく、感動してやがるなと思いました。私は写真を撮って満足していたら、誰かが産まれたばかりの長女と一緒に写真を撮ったらと言い出し、どのように抱きかかえたらいいのか分からないので恐々長女を抱えて椅子に座り、出産に立ち会って下さった看護師さんにも入って頂き、一緒に写真を撮りました。たしか義母がカメラのシャッターを押してくれたと思います。このとき、看護師さんが「お父さん、出産に立ち会われて大丈夫でしたか。」と聞かれたので、「解剖に立ち会っているので、大丈夫ですよ。呼吸の仕方が照れましたけど。」と答えると、この人は変なことを言うなあという顔をされていました。後で、看護師さんは、嫁さんから私の仕事を聞き、妙に納得されたそうです。

そして、月曜日になって、仕事場に顔を出したところ、三席検事から「どうして休んだ?主任は土、日も警察署に行くべきだろう。」と言われ、この人とは合わないなと思いつつ、「無事に長女が産まれ、休みを頂いたおかげで出産に立ち会うことができました。」と報告すると、喜んでくれました。検察庁には、このパターンの人がいるのです。警察の方から、私が休んだ土、日には何も動きはなかったと言われました。

それから、長女の出生届は、私が通っていた警察署の側に市役所があったことから、警察署に行くついでに少し時間をもらって市役所に寄って提出しました。


10数年前の出来事で、ブログにこの記事をアップする時間に長女はこの世に生を受けたのでした。身長48・5センチメートル、体重2600グラムでした。早く大きくなれと思っていましたが、今のように大きくなるとは思っていませんでした。初めて抱っこしたときの感触が懐かしいです。

昭和55年の8月19日について

おはようございます。熟睡できたので、目覚めがスッキリしています。


昭和55年8月19日の夜、新宿駅西口において、停車中のバスが放火されて多数の死傷者が出る凶悪重大事件が発生しました。

私はその年の3月に高校を卒業し、浪人生活を送っていました。そして、高校の同級生(「N君」とします。)が杉並区松庵(最寄り駅は西荻窪駅)に下宿を借りて予備校に通っていたため、夏休みを利用してN君の下宿に転がり込み、東京を案内してもらっているところでした。私は、バスの放火事件が発生したことを知り、福岡にいる親が私のことを心配していると思い、公衆電話から自宅に電話をしました。当時は携帯電話というものが出回っていませんでしたし、N君の部屋に(黒色の)固定電話すらありませんでした。その代わり、あちこちに公衆電話がありました。

N君は一浪して大学に入学し、私も上京することになったことから、大学に通い始めても付き合いは続き、私は西荻窪に頻繁に出没していましたが、いつしか全く付き合いが無くなりました。N君も司法試験を受験すれば普通に合格したはずですが、偉大な父親に対する反発があったのか司法試験に興味を示すことはありませんでした。

先日、白表紙を探していたら、N君が浪人時代に私にくれた1通の手紙が出てきました。郵便番号が5桁で、封書は50円で送ることができた時代の手紙です。その手紙には、予備校の授業が素晴らしい上に、周囲も強者揃いであるが、それが刺激になっているとし、私が苦手な古典の勉強方法が書かれていました。また、亀井勝一郎氏の著書「青春論」を読んで感激したとも書かれていました。その手紙の最後の部分は何度も何度も読み返した記憶があります。それを引用します。

【全浪人生へ。
我々浪人は、いわゆる落ちこぼれの一種かもしれない。けれども、現役の諸君より少なくとも一つの大きな経験を得たのではないだろうか。「挫折」という人間なら遅疾こそあれども必ず味わうであろう感情を。この苦しみにこそ快感を得るべきではないだろうか。どうせ人生70年、この特殊な一年は我々にとって70分の1以上のものでありたい、否、70分の1にしてはならない。-少なくとも僕はそう思います。】


私は、特別な思いがあるからでしょうが、法曹を目指して司法試験を受験している皆さんには、1年が70分の1以上のものであってほしいと願っています。そして、この世を辞するまでにもう一度N君に会えたらなと思っています。もっとも、いざとなったら、会う勇気は萎えるのでしょうが、…。

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昭和から平成へ

宮内庁から昭和天皇実録が公刊されるようです。

昭和63年は昭和天皇が御病気になられ、世の中は自粛ムードが漂い、プロ野球の優勝祝賀会では付きものであったビール掛けがなくなりました。日本とはそういう国なのだと思いました。私の場合、ある程度予想していたとはいえ、昭和63年の司法試験では択一試験で不合格となり、択一試験の試験時間である3時間で1年が終わった状況でした。自動車の運転免許試験に不合格となっても年に何回か受験できて良いなあと思ったものです。ボチボチ勉強して、サブノートが完成し、過去問を検討してワープロで打つ作業も終わり、することが無くなりました。強いて言えば、精神的な弱さを克服することであったかもしれません。

年が明けて昭和64年が始まりましたが、私の誕生日の翌日に昭和天皇が崩御されました。激動の昭和が終わり、まだ新しい年号も決まっていないとき、私は残っていた昭和64年の年賀はがきを利用して自分宛てに文章を書きました。なお、消印の日付は昭和が終わった日になっていました。

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「今年は必ず合格するぞ 悔いを残さぬよう、力の限りを尽せ!」と書いていました。よくよく考えてみれば、自分にだけ新しい時代が始まったわけではありませんが、何か期するものがあったのかもしれません。ただ、その年に司法試験に最終合格できたからこそ、このはがきが残っているのでしょう。

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こちらは消印の日付で確認したら、年号が平成になってからのものですが、「いよいよ答練開始 本日は刑事訴訟法 必ず名前を載せるぞ!」と書いていました。刑事訴訟法は得意科目でしたから、成績優秀者として名前を載せると気合いを入れたようです。


どんな試験でも言えることでしょうが、時空を超越して必ず合格する者がいます。逆に、厳しい現実ですが、どんな問題が出題されても絶対に合格しないと思われる、憐れな者がいます。問題はそこそこの力があって、一応合格圏内に入っているが、問題によっては不合格になる危険がある者でしょう。「蜘蛛の糸」を握り締め、地獄から這い上がって行くシーンを連想して下さい。自分の目の前で蜘蛛の糸が切れ、地獄に落ちて行く者がいるはずです。

2000人も合格する司法試験で不合格となるのは何か原因があります。その原因が究明せずに、いつか合格するだろうと思っていたら、また不合格になります。そして、時代は流れ、人の暮らしは便利になったものの、最後は、絶対に合格してみせるという気合いが合否を分けると信じています。



(続き)
久しぶりに50分程のウォーキングをしてきました。近いうちに、ジョギングをするあばら家さんと私はウォーキングでご一緒したいです。シャワーを浴びて、朝食も終わりました。


今回は気恥ずかしくなるはがきを披露しました。お笑い下さい。受験期間が長くなって、精神的に少し不安定な時期であったかもしれません。

ところで、昨日、若手の人の間で、私が裁判員裁判の弁護人として復活するかどうかが話題になったと耳にしました。こちらの方は気合いだけではどうすることもできず、夢のまた夢でしょうか。

次女が生まれたあの日について

平成26年9月7日朝7時のNHKニュースのトップは、全米オープンテニスで錦織圭選手が決勝進出を決めたことを報じていました。準決勝の相手はランキング1位の選手でしたから、錦織選手は勢いに乗っています。先日の勝利の際、日本人選手として96年ぶりの快挙と報じていたように思います。もしかしたら、そのことを御存知の高齢の方がいらっしゃるかもしれません。しかし、今回は史上初とのことです。人の何倍もの努力をされているのでしょうが、それでもこんなチャンスは巡ってきません。是非とも錦織選手に優勝してもらいたいものです。ちなみに、錦織選手は平成元年12月生まれでした。


ところで、これからが本題になりますが、次女が生まれて10年になりました。アッという間でした。

嫁さんの陣痛が始まる時間によってはバタバタすることになると覚悟していましたが、朝起きて、世の中が動き始める時間になって陣痛が始まりました。義母が長女と長男の世話をしてくれたので、私は病院に行った嫁さんを追いかけるように病院に駆けつけたところ、受付が始まっていない時間でした。嫁さんと一緒に待合で時間が経つのを待っていました。しばらくして、病院が動き始め、病室に案内されました。

私は、長女、長男の出産に立ち会っていましたから、この日も当然出産に立ち会う気持ちでした。しかし、まだまだ時間がかかりそうで、午後は倉敷での仕事が入っていたことから、私は、その準備をするため仕事場に戻りました。これが油断でした。

病室に戻ったら、どこにも嫁さんの姿がなく、廊下をウロウロしていたら、看護師さんが「無事に生まれましたよ。」と言われたのです。消毒済みの服を借り、確か分娩室に案内されたと思いますが、すべてが終わっており、無事に次女が生まれていました。ただ、次女の顔を覗いてみると、片目しか開いていませんでしたし、出産に立ち会うことができなかったのがこの子との何かの因縁かなあと思い、かなり気持ちが落ち込んだ記憶があります。なお、妊娠中のエコーの検査では男の子と聞き、そのつもりで名前を考えていましたが、出産予定日が近付くにしたがって、先生の言動が自信ないものとなり、女の子ではないかということでした。

私は、予定通り、倉敷に行って仕事をしましたが、運悪く台風が直撃したため、帰宅する時間にはJRが運休となっていました。このことも何かの因縁と思い、初めてバスに乗って倉敷から岡山まで帰ってきました。家では義母とビールで乾杯しました。

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長男が生まれたあの日のことについて

長男が生まれた日のことについては、特に憶えていることがありません。長女、次女が生まれた日の記憶は鮮明に残っていますが、長男の場合は順調に事が進んだために記憶に残っていないのかもしれません。

出産には立ち会いました。看護師さんから言われるまでもなく、私は「ヒーヒーフー」と呼吸し、臨戦態勢に入っており、生まれたときには「男の子か。」と安堵しました。事前にエコーの画像を御覧になった産科の先生から、「男の子でしょう。」と知らされ、それが最後までぶれることがありませんでしたから当然の結果でしたが、いざ生まれてみると、待望の跡取りの誕生でした。嫁さんも安堵していました。私の実家の方から、次は男の子を頼むと暗にプレッシャーがあったようです。なお、嫁さんの兄のところは、女の子3人です。

長男が生まれたときのことを憶えていないので、名前の由来を披露させて頂きます。長女に「今度、弟ができるけど、名前は何がいいかな。」と質問しました。当時、「機関車トーマス」という番組が放送され、長女がこれが好きでして、たくさん機関車のおもちゃを買って遊んでいました。そのため、長女の答えは「トーマス!」でした。一応、長女の希望を聞いた以上、トーマスで漢字を考えましたが、どう考えても不自然でしたから、妥協の産物として「とうま」となったのです。「とうま」に決まってから、どんな漢字にするか考えました。私は、長男の名前が気に入っています。


先日、長女と長男が、空手の道場で指導の補助をさせて頂きました。次女も参加していましたから、久しぶりに我が家の三人衆が揃い踏みしたわけです。そのときの空手のF先生のブログを拝見したところ、指導の仕方を見ていると、姉弟の性格の違いが分かった旨の記述がありました。この点について、長男に心当たりがあるか確認すると、長女よりも自分の方が真面目に指導しているとのことでした(?)。

貸してあげた「海賊とよばれた男」という本は少しずつ読んでいるそうです。何度注意しても、眉毛を少し剃っては左右の剃り方が異なるのか、最後は結構剃っています。長男は私よりも身長が高くなりました。バスケットボール部に所属し、フリースローを10本打てば7本入ると豪語しています。誕生日プレゼントとしてバスケットボールシューズを買わされました。値段も驚きましたが、サイズが27センチということに唖然としました


我が家の「とうま」君は、今日も、これからもマイペースで生きていくと思います。

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今日で20年(1)

平成27年1月17日になりました。

午前6時前には目を覚ましていました。土曜日で休みと思っていたら、家の中ではいろんな足音がしており、居間に行ってみると、子ども三人が学校に行く用意をしていました。土曜日にも授業があるそうです。岡山県は学力テストで全国的な順位において低迷しているため、土曜日も授業をすることにしたのかもしれません。我が家には、学力テストの平均点を下げて岡山県の順位を下げていると思われる長男がいますので、親として責任を感じていますが、学力はもちろん、道徳面での授業も工夫して頂きたいと思います。どういう訳か私のお弁当も準備されていました。私も起きて、仕事に行けということかなと思いました。


さて、阪神淡路大震災が発生して丁度20年が経ちました。時が経過するのは早いです。以前のブログにも投稿したことがありますが、記憶のままにあの日から起きた出来事を振り返ります。

平成7年1月17日は平日でした。記憶だけを頼りにすると、月曜日であったように思います。当時の私は高松で働いていましたが、4月には異動が予定されており、その一週間前の1月10日(これが週明けの月曜日であったと記憶しています。)、検事正から私の異動先が神戸に決まったとの内(々)示があったのでした。


それまでの神戸は、新幹線に乗車した際に新神戸駅を通っただけで、実際に足を踏み入れたことはありませんでしたし、一年だけの勤務で異動になるのはもったいないとのアドバイスを受け、新任は大阪を希望し、いずれは神戸で仕事がしたいという希望を抱いていました。なお、私は通勤するのに押しくら饅頭の状態で電車に乗るのが嫌でしたし、人(新任)が多いのも苦手でしたから、東京は希望していませんでした。今となっては、一度は東京でも仕事をしたかったと後悔しています。

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今日で20年(2)

平成7年1月17日、既に目覚めていたか、家が揺れたから目覚めたか定かではありません(以前の記事と矛盾します。)が、高松でも結構な揺れでした。テレビの上の置時計が倒れて、テレビから落ちました。そして、テレビのスイッチを入れましたが、今のように即座に地震速報は出ていなかったと思います。高松の震度が3であったことが分かりました。

その後、しばらくして、画像はないものの、高速道路が倒壊している模様といった情報が流れ始めました。仕事場に行って、部長の部屋を覗くと、部長も地震のことを気にされてテレビを観ておられましたが、高速道路がパタンと横倒しになっている映像が流れるようになりました。そして、「神戸の役所は大丈夫だろうか。」という話になりました。夜になると、火災の様子が知らされ、地震発生から相当時間が経過してからも火災が発生しました。死者、行方不明者の数が増えました。新任のときに利用していた阪急伊丹駅が損壊した映像はショックでした。


私は東京での研修がありましたが、新幹線の高架が損壊し、新幹線が一部不通になっていたため、高松から東京へは飛行機を利用しました。帰りは伊丹から飛行機を利用しました。神戸への辞令を頂いた4月にはJRの在来線は運転を再開していましたので、姫路から在来線に乗り換えてボーッとしていたところ、ある所から光景が一変し、ほとんど焼野原の状態になったのでした。長田のあたりが悲惨な状態でした。神戸駅で下車し、官舎まで歩きました。竣工後間もない官舎でしたが、壁に一筋のヒビが入っていました。

私はカメラを持って外に出ました。焼野原のところは当然のことながら、燃えた臭いが立ち込めていましたし、商店街にはそれと知らせるアーケードらしきものがあるだけで、商店はありませんでした。所々、切れた電線が地面近くまで垂れ下がっており、「触るな」という紙が貼ってありました。何気なく花が供えてあるところがあって、そこで亡くなった方がいることも分かりました。生き別れになった家族に、自分が無事であることを知らせる伝言、連絡先が書かれた張り紙を目にしました。そして、道がうねっていました。ハーバーランドの方に行ったとき、道のうねりが凄かったと記憶しています。

後に大阪に行く用事があり、在来線を利用したところ、三宮では家電量販店が入っているビルが損壊しているのを見ましたし、三宮を過ぎると、また地震の被害が大きくなっていることも分かりました。

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