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苦手なことについて

私は、走るのが苦手です。お気に入りのブログの作者である「あばら家」さんは、走ってばかりいます。


高校の運動会で、4チームに分かれ、100メートル走の選手になったとき、履いていた靴とスタートダッシュはよかったのですが、大差でビリになり、短距離選手はあきらめました。


高校の体育では、鬼のO先生が担当になり、初日にゲロしました。腹筋と腕立て伏せをやり、ペアを組んで馬跳びをして、高鉄棒を渡ってから、校舎の周囲を走るのです。たしか、1周が800メートルで7周か、1周が700メートルで8周を走ったと思います。私は、隙があれば近道をしようと狙っていたのですが、鬼のO先生も一緒に走るので、なかなか誤魔化すことができず、ゴールした振りをすると、友人から「まだ残っているだろう。」と指摘され、トボトボ残りを走っていました。これが終わって、やっとその日の固有のメニューになるのですから、ゲロするのもおかしくないでしょう。O先生から「君は体が弱いのか。」と聞かれ、「弱いです。」と答えました。水泳のとき、プールの淵を肩車で競争したこともありますが、さすがに他の教諭から、危ないとクレームが来ました。


何が楽しくて走っているのか分かりませんが、友人の中に生き生きとして走っている男(陸上部所属)がいました。でも勉強はできませんでしたね。授業中に思い切り寝ていて急に起きたら、額のニキビが潰れて血が出ていたのを憶えています。必ず、私より成績が悪く、どんなことがあってもビリにはならない自信がありました。この前、高校卒業30年の集いの案内が来ていて、この男のことを思い出しました。

福岡の思い出(1)

私は、19歳まで博多区に住んでいました。 (現在では早良区内の)中学と高校にバスで通学し、丁度、地下鉄工事の時期と重なったために、交通渋滞で苦労しました。その後は、実家があるものの、数年に1度の割合でしか帰郷しませんので、その度に様子が変わっていくのに驚いています。高速道路なんてなかったです。


かすかな記憶があるのは、おじさんに平和台球場に連れて行ってもらい、西鉄ライオンズの公式戦を観戦したことです。昔は強かったと言われても、目の前のチームは弱かったですね。しかも、野次がすごいんですよね。クラウンライターライオンズになったりしましたが、プロ野球とは思えませんでした。ホークスが来てくれたときも、最初はボロクソに言ってましたね。ただ、福岡の人の心の熱さと裏表だと思いますし、結構涙もろいところがありますよね。


正月は、西鉄大牟田線で、母と一緒に太宰府天満宮に行ってました。御利益は中学までだったような気がします。梅ヶ枝餅が好物でしたが、たしか1個20円くらいではなかったでしょうか。最近、福岡の物産展などで見ると、値段が高くなっていて驚いています。


「どんたく」に行った記憶がないのです。7月の「山笠」は、家の近くの神社が神輿を出されており、神輿を担がなくても、行列にしたがって歩き、水をかけてもらって町内を練り歩くと、かしわ飯のおにぎりとたくあんをもらえました。これが美味しかったなあ。


9月には箱崎宮の放生会に母と行ったことがあります。途中で、腹を壊し、トイレがなかったため、「ここでしんしゃい!」と言われて、民家の玄関先でうんちをしたことがありました。翌朝、玄関先にてんこ盛りのうんちがあったはずで、家の人はびっくりしたと思います。ごめんなさい(ここで、「お気に入りブログ」に挙げている、abarayaさんのように絵文字を使いたいところです。ぜひ、笑いに飢えている方は面白いですから、覗いてみて下さい。)。 


私が出没するのは西新を中心にした地域でした。商店街で回転饅頭、かき氷、それからお好み焼きを食べていました。この前、博多風のお好み焼きを焼いている関西のお店を放送していましたが、たしかに博多のお好み焼きはギュウギュウ押さえていましたし、自家製の変なマヨネーズがありましたね。一枚で結構満腹になったものです。


また、もうすぐ11月で、大相撲の九州場所が始まりますが、百道の海岸には二子山部屋、花籠部屋などが宿舎を設置していましたので、朝稽古を見学させてもらいました。下の人は、ごろん、ごろんと転がされて哀れなものでした(コンクリートブロックの上に転がす、意地の悪い先輩力士がいたのです。)。逆に、先代の貴乃花さん、輪島さんは、なかなか稽古に出てこられませんでしたし、「いた。」と思ったら、オーラがあって近寄りがたいものがありました。着ているものも違っていました。隆の里さんは筋肉がムキムキでしたが、横綱まで昇進するとは思いませんでした。子供ながらに相撲界は恐ろしいところであると感じました。


12月に入ると、福岡国際マラソンがあり、ショーターという選手が強かった記憶があります。よくテレビで目にしますが、私も自転車で歩道を走って、志賀島の方まで行ったことがありますが、選手に追いつくことはなかったです。コースが変わって面白みが減りました。

福岡の思い出(2)

福岡(博多)と言えば、食べ物の話になります。


豚骨ラーメンが好きでした。麺は固めでないといけません。ごまを入れ、ひたすら麺だけを食べて、替え玉を2回する。よく分からない汁をつぎ足し、ここで紅生姜を入れる。最初から紅生姜が入れてあるところは、ちょっと抵抗がありましたね。場合によっては、替え肉(チャーシューのお変わりですね。)を頼んで、ちょっとぜいたくな気分になっていました。西新では学割が使えました。


未成年でしたが、高校を卒業してからは、ときどき屋台に行っていました。親父の酒癖がよくなく、母が辛い思いをしていたので、自分を見失うようなことがない程度に酒を飲んでました。おでんの中でも、餃子を天ぷらで巻いたもの、ロールキャベツが好物でしたから、この2つばかり食べていました。屋台の大将に「品切れ。」と言わせたかったのです。


豚バラ串もうまかったですね。屋台の外で焼いて、「お待ちっ。」と持ってこられると、たまりませんでした。


福岡は魚が美味しかったですが、私は、ごま鯖が好きでした。鯖が好物なので、〆鯖もよかったですね。嫁さんが、鯖を食べるとじんま疹が出るらしく、時々、いい鯖があったときはごま鯖を作ってくれるのですが、味見をしていないので、昔食べたものとは今一つ違いますね。


うちの母は酒を飲みません。私が屋台で酒を飲んで帰ったときのことですが、「また飲んできたとね。帰りが遅うて、心配で眠れんかったばい。」と言ったくせして、母の顔を見たら、畳の痕跡がしっかりついていました。おまけに、よだれも垂らしていたようです。得意のうたた寝をしていたことが明らかでした。

福岡の思い出(3)

食べ物の話が続きます。


正月のお雑煮ですが、あご(トビウオ)で出汁をとり、丸いおもちで、青物では「かつお菜」が入れてありました。特徴的なのは、鰤の切り身が入れてあったことです。お雑煮は、地域の特徴が出ますね。よくテレビで紹介される柳橋連合市場に行くと、正月用品は揃いました。嫁さんには、雑煮に鰤の切り身を入れてくれるよう頼むことがありますが、故郷を思い出します。


家では、普通の鶏の水炊きが食卓に出てきました。専門店では、鶏だけをグツグツ炊いて、まず汁を楽しんでから、鶏をたべるようですが、そんな贅沢はできませんでした。


未だに、何から出来ているのかよく分かりませんが、「おきゅうと」が好きでした。海藻から出来ているのでしょうか。博多万能ネギ(当時は、こうとうネギと言っていたと思います。)と削り節をのせ、醤油をかけて食べます。「おきゅうと」も、博多の物産展があれば、ときどき見かけます。ちょっとしか量がないですね。


めんたいは、今では辛子めんたいが売れていますが、私が博多にいたころは、普通のめんたいを食べていました。自分で一味唐辛子をかけていました。また、もつ鍋はなかったように思います。屋台でもそんなにもつ鍋を出しているところはなかったです。もつは痛風によくないので控えています。博多鉄鍋餃子もなかったですねえ。


お菓子でいえば、まず、ひよこ(饅頭)でしょうか。いつもどこから食べるか迷い、顔をかじってみたり、尻からかぶりついていました。新幹線の車内販売でも取り扱っていると思いますが、人気の秘密が今一つ分かりません。私は、饅頭ならば、どちらかと言うと、千鳥饅頭の方が好きです。たしか御曹司と中学で同級生だったと思います。饅頭を死ぬほど食べているのかと思っていました。親にマルボーロ、チロリアンと一緒に送ってくれるように頼むと、山ほど送ってくれます。チロリアンは子供に好評です。

方言について

私は、博多の出身ですが、あまり方言は出ません。関東や関西等で長く生活したこともあるためか、話し言葉だけなら、博多の出身であると分かる方はいないですね。


先日、久しぶりに福岡の人が話すのを聞き、懐かしく思いました。私も、高校の同級生と会って話すとき、はじめは普通に話しているのですが、相手がきつい博多弁でくると、こちらも引きづられて博多弁になってしまいます。そうなると、周囲の人からは喧嘩をしているように聞こえるようです。


嫁さんが、私の母と電話で話していたのですが、電話を切った嫁さんが言うには、母が何を言っているのか分からなかったとのことでした。こてこての博多弁で話す母ですが、決して外国人ではありません。


博多弁を聞くと、故郷を思い出します。

ハクキンカイロ

最近は使い捨てカイロが目立ちますが、私はハクキンカイロを使っています。ベンジンの入れ方によりますが、24時間ほど暖かさが持続します。


問題はベンジンを売っている薬局が少なく、インターネットで検索し、通信販売を利用せざるをえないことです。そうすると、送料がもったいないのです。


ここで、一つのエピソードを紹介させて頂きます。30年以上前の話になりますが、ハクキンカイロをパジャマの下に入れた状態で家のトイレに行ったところ、ボットン便所の中にハクキンカイロを落としてしまったのです。上から棒を使って引き揚げようとしましたが、無理でした。それだけでなく、穴の側面にこびりついている汚れが腕に付き、結局、新しい物を買った方がいいとなりました。


ところが、学校から戻ってみると、父がハクキンカイロを引き揚げて、得意げな顔をしていました。ゴルフのパターを使って引き揚げたらしいのです。ただ、中の綿が汚れていて、変な臭いが取れないため、父には申し訳なかったですが、新しいハクキンカイロを買いました。


やるときはやってくれる父でした(まだ、生きています。念のため。)。皆さんで、ハクキンカイロを流行させませんか。

高校三年生(1)

舟木一夫さんの高校三年生という歌を御存知でしょうか。森田健作さんが主演された「おれは男だ」というドラマを御存知でしょうか。ああいう希望を抱いて高校に進学しましたが、全然違っていました。


高校二年のときの話になります(タイトルと違って、すみません。)が、1学年450人で、10クラスあり、私は男女共学のクラスにいました。どういうわけか3年間、男女共学でしたね。


担任は英語の先生でしたが、クラスに不満を持っておられました。というのも、クラスで成績がトップの生徒が、全校では30番くらいであり、これが面白くなかったからです。300番以下で相手にされない私にとっては、どうでもいいことでした。むしろ、その先生が「開校以来、最悪のクラスだ。」と言っていましたが、楽しいクラスでした。


授業をさぼって、どこかに行ってしまう生徒がおり、その代返をするのですが、どう見ても空いている席が多く、先生が不審に思いました。その次からは、机の上にゴミを置いて、空いているように見せかけたり、机を廊下に出して空席のようにしても、いなくなった生徒が目立つ人間でしたから、先生は見て見ぬふりのところがありました。


生徒が授業中にプラスチックの板で作った麻雀をしていたら、これを見つけた担任の先生が怒り狂って(その怒り方が尋常でなかったので、こちらがむかつきましたね。)、親を呼びつけましたし、「こんなクラスの担任は辞めたい。」とぼやいたので、私が「辞めたら。」と言ったのでした。


そして、当然、3年生に進級したら、担任の先生が変わるものと思っていたら、またしても、その担任の先生でした。でも、担任の先生はご機嫌だったのです。

高校三年生(2)

担任の先生が喜んだのは、学年で10番以内を狙う生徒が3名いて、やっと教え甲斐がある生徒に出会ったからでした。勉強していないように見えて、質問されると、きちんと答えるタイプでした。


私は、相変わらず、壊れた潜水艦のように、成績が浮上することはなく、学校で行われる業者のS模試を受けると、悉く「志望校を変更されたい。」との評価が戻ってきました。ふざけて、聞いたこともない女子大を志望校にすると、合格可能性80パーセント以上となっていました。


通っていた高校は、二輪の免許を取得することは禁じていませんでしたから、自動車教習所に通って、当時の中型二輪免許を取得していました。肝心の二輪がなく、友人の二輪を借りて、構内を安全な速度で走っていました。当時は、GT380、GS400(自動車試験場の試験車でしたね。)、それから、CB400FOURの後継であるHAWKⅡが人気がありました。特に、生産中止になったCB400FOURは、中古車の値段が新車のそれよりも高いという異常な事態でした。


話を学業に戻すと、私は文系志望に属していました。医者になりたいという気持ちもありましたが、数学、物理、化学がさっぱりで、理系に進むには無理があったのです。かといって、文系の科目についても、きちんと基礎を身につけていませんでしたから、浪人することは必至でした。


それで、共通一次試験を受験したら、全国平均は上回ったものの、1000点満点で700点の大台に乗りませんでした。クラスのトップは900点近かったと思いますから、1科目(200点)分の差があったことになります。


成績優秀な3名のうち、1名は現役で大学に進学しました。この3名は、卒業式後の打ち上げのときに、これからの日本をどうしていくか、熱心に議論していましたね。忘れていました。もう一人すごい男がいました。応用力が問われる模擬試験では大した成績は取れないのに、中間テスト、期末テストのように、習ったことの復習、理解度が問われる試験ではずば抜けた成績をとる男がいました。この男は世界史のおかげで、現役で大学に行きました。私は、その男から日本史のノートを借りることができました。この男は、今では、人を指導する立場にあります。


また、試験は意外なことが起きるもので、男だったらラサール高校を受験したという女性が志望校に落ちました。トイレの中にも参考書が置いてあるとの噂がありましたが、事実は不明です。


私は予備校生としての生活が始まり、高校の隣に通い始めたのですが、面子は高校のときと同じであり、先生も高校から来ていましたので、変わり映えがなかったですね。

ハクキンカイロ(2)

ハクキンカイロの調子が悪く、点火しなくなりました。


ベンジンを入れすぎたのが原因か、ボワーッと火が点いてしまいました。そろそろ火口を変える時期に来ているのかもしれません。


便利なものですが、寿命があることは事実です。昔、気がついたら、低温やけどで腹が黒くなっていました。

筑前煮

筑前煮というのがありますが、博多、少なくとも実家では「がめ煮」と呼んでいます。


私は食べ物に関しては、好き嫌いがない方で、何でも食べます。ただ、食べたことがない料理が出てくると、お腹を壊さないか心配します。また、同じ物を続けて食べさせられるのは、勘弁して欲しいです。


ところが、私の母は、料理を作る量が尋常でなく、遠慮しているわけではないのに、「遠慮せんと、食べなあかんばい。」と言って、てんこ盛りになるように作ります。その典型が、がめ煮だったように思います。がめ煮の場合は、小皿に自分の食べたいものをとって食べますが、てんこ盛りの状態を見ると、「また、次もあれが出てくるな。」と覚悟していました。母は、ときどき、茶碗蒸しに入れて誤魔化していましたが、がめ煮の残り物という印象は消えませんでした。


嫁さんは、「がめ煮」と言うと笑います。どうして、そう呼ぶことになったのか分かりませんが、嫁さんは、がめつい奴が作った煮物と思っているのでないでしょうか。


私は里芋、人参、かしわを中心に食べていくことにしています。

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オグちゃん

Author:オグちゃん
平成25年5月、アメーバ・ブログから引っ越してきました。役に立つことも、役に立たないこともマイペースで書いています。日記のような感じでしょうか。

しかし、ブログから新しい出会いが生まれ、有難いものであるということも知りました。

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